2012年9月11日火曜日

250.発明発見物語はいつもスキャンダルを伴うわけではない

前項で「発明・発見に関するスキャンダルの分類」について書いた。発明や発見は時代の産物であり、時期が熟してくると、複数の人々が同時期に同じような発明をなしとげることがしばしば起こる。そして、Aの考案をBがマネをして、さらにBのアイデアをAがパクり返すということがおこるので、発明がなされた(と人々が信じた)段階で、だれがいちばん手柄をたてたのか、公平に見ても難しくなる。
そして発明ゲームに携わった人々の間で、名誉とカネをめぐる争いがおこり、しばしばスキャンダルとなる。

しかしスキャンダルのない発明・発見物語というものはある。

たとえば古代シラクサのアルキメデスが、王様が金細工師に作らせた王冠に鉛が混じっていないか、王冠を壊さず、しらべられないかと相談され、日夜考えていたが、風呂にはいっているうちに比重と体積と重量の関係が思い浮かび、ある物の体積はそれが排除する水の体積を測ればよいのだから王冠の体積と王冠と同じ重量の金の体積をくらべたらよいことに気づいた。(ある物の体積はそれが排除する水の体積であることをアルキメデスがはじめて発見したのか、即ちこの事件の解決を通じて、物の体積の測定方法と比重の測定方法が確立したのか、その知識はすでにあって、王冠のことに応用しただけなのか、は不明。)・・・・・この物語にはスキャンダルはふくまれていない。アルキメデスが喜びのあまり、裸で往来に走り出たことは、この際、スキャンダルでない。

発明・発見物語とは、本来、アルキメデスの発見の喜びを、物語を聞いた人間が共有するものである。アルキメデスとともに、「ユリイカ!」と叫ぶために、人々はアルキメデスの伝記を読む。そして、自分も何かの発見をして、そのよろこびを味わいたいと願うのだ。

「世界を変えた発明と特許」に取り上げられた大発明家の物語のうち、豊田佐吉と太一郎の親子のエピソードがいちばん気持ちよく読める。だれの発明をだれが盗んだというような話がまったくない。ただもう努力と成功の物語である。社員の発明は社員の発明として正直に記載されている。昔の日本人はまじめであったという感じがする。

発明発見にかんするスキャンダルの分類をとくとくとして記載するこのブログの記録者は、発明・発見物語の本来の楽しさをしらないわけではない。発明者の英雄物語は爽快である。スキャンダルと英雄物語と両方必要である。スキャンダルばっかりだとイヤになるだろう。ちょっとサッパリしたくなるだろう。ウドンをたべるときにネギなどの薬味がいるように。中東でチャパティ(釜の内側に薄く貼り付けて焼いたパン)を食べるとき、彼らは生のネギを片手に持って食べる。チャパティとネギを交互に食べる。ウドンとネギとおんなじだ。発明英雄物語と発明スキャンダルとどっちがウドンでどっちがネギかしらないが。

平家物語は誰が誰を討ち取ったとか、首をとったとか、血なまぐさいお話しが延々と続く。われわれは喜んでこれらの残酷エピソードを読む。しかし同じような残酷物語を読みつづけると、むなしくなってくる。したがって平家物語では、読み手が安心して読みつづけられるよう、清涼剤を用意する。それば、仏教の諦念にもとづく哲学:「所業無常、盛者必衰の理」である。平家物語では最初にこの読み方が提示される。物語のはじめに、その物語を解釈する哲学が提示されるのは、ユニークといえるのでないか。(「失われた時を求めて」では長い長い小説の最後に物語を貫く、感覚、考え方のようなものが提示される。「源氏物語」では、・・・・読んでいないが・・・作者はとくに1ページを裂いて、宣言するわけではないが、個々のエピソードが全篇を一貫して仏教的諦念を通して取り扱われている、といえるのでないか。)

発明発見のスキャンダルを読みつづける精神のバランスは皆さん各自でおとりください。



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