共同研究者のうち一方しかノーベル賞をもらえなかったとき、受賞者が手柄を独り占めしたとか、横取りしたとかの非難をうけたり、特許とその改良特許との間で、血で血を洗う戦いが演じられたり、弟子に無断で先生が単独で特許を申請したり・・・・・輝かしい進歩の物語に黒い影のように点描される負のエピソードをまだしばらくは書き続けるつもりだけれど、同じような話が続くとどうしても飽いてくる。
そこで、ここいらでちょっと一休みして、発明・発見をめぐる数々のトラブルを概括してみよう。
わたしなんぞよりズットえらい先生方があい争うのにはどのようなメカニズムがはたらいているのか。先生方を将棋のこまのようにならべて、大所高所から論評を加え、こっちの先生のひげをひっぱってみたり、あっちの先生に鞭を振り上げさせたりしてみる。
まず私たちは、全く何もないところに輝かしい業績をうちたてることはできないのであって、立派な業績の前には、必ず先行する業績がある。問題は先の業績のうえに何ほどの成果を加えたかということである。この先行する業績を見ると、なかなかどうしてたいしたもので、何年も前にすごい大発見、大発明が大方達成されていたのであって、今回はちょっとそれに薬味をふりかけたところ、たまたま思いがけなく大成果が生まれたが、勝負ははるか以前についていたのではないかと思われることもたびたびである。
つぎに輝かしき大発見、大発明と思っても、次の若い世代にはかなわず、大発見がかすんでしまうような発見や技術の改良があとに続き、状況が一変して、自分の業績なんぞは、予告編にすぎなかったのではないか、と自信を失うこともある。
科学技術の進歩はS字状カーブを描いてレベルが高まっていくのであって、ある画期的業績があると、それがきっかけとなって爆発的に研究成果が積み重なって、「離陸」する。そのうち成熟して、進歩がすくなくなって、プラトーに達する。個々の成果が、このS字状カーブのどのへんに位置するかを判断することは難しい問題である。(1)爆発的進歩の引き金となった画期的成果なのか、(2)この進歩の直前の踏み台となった小さな石にすぎないのか。また、(3)画期的業績を踏み台としているので、かつてないほどの跳躍を達成しているが、所詮後追いの猿真似なのか。
私たちは大科学者や大発明家の英雄譚を通して、進歩の物語を読むので、ワットの伝記の中では、ニューコメンは、ヒトに進化する前のサルにすぎず、ジョナサン・ホーンブロアーはエピゴーネンにすぎない。しかしニューコメンなくしてはワットはなかったのであって、ニューコメンがすべてのはじまりと主張することもできる。ホーンブロアーは複式蒸気機関の発明者としての栄誉をうけてもよかったのに、偏狭なワットによって、破産させられてしまった。
発明に限っていうと、誰かの発明を別のだれかが真似をする。すると必ず何がしかの改良がなされる。完璧な発明はなく、その前の発明が大発明であればあるほと、あとから加える改良の進歩の度合いも大きくなる。したがって、本家より猿真似のほうが機能が優れているのが普通である。
したがって本家より性能がすぐれているからといって、また、その後の模倣者がこぞって、本家のほうでなく、猿真似のほうをまねするといっても、猿真似のほうが画期的発明とは必ずしもいえない。
また先行する発明はその後の改良発明に多大の影響をあたえている。先行発明なくしてその後の改良発明はない。しかしだからといって、先行発明が画期的発明とは必ずしもいえない。抜本的改良が加えられる前の先行発明はお話にならない、劣ったものかもしれない。
発明をめぐる物語は、(1)先行発明者が追随する改良者をおさえて、名誉や金銭的成功を手にいれるか、あるいは(2)改良者が画期的改良をなしとげることによって、先行発明を単なる「予告編」にしてしまったかの物語であって、これ以外のものはない。
その登場人物のせりふもすべてきまっている。発明の物語ほど、登場人物が、以前そのせりふを幾多のひとが繰り返しているのを全く意識せず、自分の心からの意見として、紋切り型のせりふを繰り返している物語はない。
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