2012年9月26日水曜日

251.カーチスがラングレーのエアドロームを担ぎ出す

 「誰が本当の発明者か」(志村幸雄著・ブルーバックス)を読むと、ワタシの書きたいような発明をめぐるトラブルは大方書いてある。

「何が抜本的な発明で、何が単なる改良か」を決めるのが難しいことが、発明をめぐるトラブルの原因であることもちゃんと考察されている。

そこでワタシとしては大したことは書けないが、改良者が、先行する発明を相対化するために、さらに先行するひいお祖父さんのような古ぼけた発明を持ち出してくることがよくあることを指摘する。

ラングレーはスミソニアン博物館の館長で、飛行機の研究者・製作者としてはライト兄弟の先輩である。彼の先進的な星型エンジンを積んだ飛行機:エアドローム(エアプレーンではない)はワシントンのポトマック河でカタパルトで打ち出されたが、横滑りを打ち消す機構を備えていなかったため、ほとんど飛行することなく、河に落ちた。ライト兄弟はこのあと間もなく初飛行に成功する。(記憶に頼って書いているので間違いがあっても責任は取りません。)

ところがライト兄弟とカーチスの熾烈な(「誰が本当の発明者か」の表現也)特許権訴訟にからんで、カーチスがライト兄弟の功績を相対化するために、エアドロームを再現(再製作)し、ポトマック河上を飛行させ、世界最初の飛行機はライト兄弟のフライヤーではなく、エアドロームであると主張した。

ラングレーはその1年前に亡くなっており、本人は生前、世界初飛行の優先権を主張したことは、全くなかったのに、ライト兄弟の追随者/模倣者によって担ぎ出されたのである。落語で死びとにカンカン能を踊らせる話があるが、カーチスがラングレーのカカシを作ってライト兄弟(オリバーだけになっていたが)をおびやかすようなものだ。

オリバー・ライトはウィルバーがチフスで亡くなってからは、飛行機の製作はせず、飛行機の発明者としての名誉を守ることに専念した。彼は、新旧のエアドロームの写真を比較し、飛行に成功したエアドローム再生機はオリジナルに比べて二十何箇所の変更が加えられていることを指摘し、元のエアドロームは飛行する性能はないことを示した。

このように改良者が発明者の功績を相対化するために先行発明を持ち出すことはよくあることである。先行者の名誉を顕彰するのが目的でなく、改良者が対決している発明者を攻撃するために引っ張り出すのである。

コンピュータの発明をめぐる訴訟でも、モークリーとエッカートのENIACよりも先に、アナタソフの「ABC機械」があった、という議論が持ち上がったが、これは訴訟の相手のハネウェル社が発掘してきたものである。ハネウェル社はモークリーとエッカートの特許を持つスペリー・ランド社に特許料を払わず、裁判で対決した。

ハネウェルといえば、日本のカメラ会社ミノルタが、一眼レフの自動焦点機構にハネウェル社の米国特許に触れる考案を用いていると、訴えられ、敗訴した事件がある。このとき、ミノルタは自身が権利を持つ、ドイツ・ライツ社の先行特許をかざして防戦したが、ライツ社特許の弱点を突かれてまけている。この場合は先行特許を持ち出したほうが負けたわけだ。

先人の業績が発掘されて賞揚されるとき、よく見ると、それを発掘するエネルギーは、発明を利用したい製造業者から湧いてくるものであることが多いのではないだろうか。



2012年9月11日火曜日

250.発明発見物語はいつもスキャンダルを伴うわけではない

前項で「発明・発見に関するスキャンダルの分類」について書いた。発明や発見は時代の産物であり、時期が熟してくると、複数の人々が同時期に同じような発明をなしとげることがしばしば起こる。そして、Aの考案をBがマネをして、さらにBのアイデアをAがパクり返すということがおこるので、発明がなされた(と人々が信じた)段階で、だれがいちばん手柄をたてたのか、公平に見ても難しくなる。
そして発明ゲームに携わった人々の間で、名誉とカネをめぐる争いがおこり、しばしばスキャンダルとなる。

しかしスキャンダルのない発明・発見物語というものはある。

たとえば古代シラクサのアルキメデスが、王様が金細工師に作らせた王冠に鉛が混じっていないか、王冠を壊さず、しらべられないかと相談され、日夜考えていたが、風呂にはいっているうちに比重と体積と重量の関係が思い浮かび、ある物の体積はそれが排除する水の体積を測ればよいのだから王冠の体積と王冠と同じ重量の金の体積をくらべたらよいことに気づいた。(ある物の体積はそれが排除する水の体積であることをアルキメデスがはじめて発見したのか、即ちこの事件の解決を通じて、物の体積の測定方法と比重の測定方法が確立したのか、その知識はすでにあって、王冠のことに応用しただけなのか、は不明。)・・・・・この物語にはスキャンダルはふくまれていない。アルキメデスが喜びのあまり、裸で往来に走り出たことは、この際、スキャンダルでない。

発明・発見物語とは、本来、アルキメデスの発見の喜びを、物語を聞いた人間が共有するものである。アルキメデスとともに、「ユリイカ!」と叫ぶために、人々はアルキメデスの伝記を読む。そして、自分も何かの発見をして、そのよろこびを味わいたいと願うのだ。

「世界を変えた発明と特許」に取り上げられた大発明家の物語のうち、豊田佐吉と太一郎の親子のエピソードがいちばん気持ちよく読める。だれの発明をだれが盗んだというような話がまったくない。ただもう努力と成功の物語である。社員の発明は社員の発明として正直に記載されている。昔の日本人はまじめであったという感じがする。

発明発見にかんするスキャンダルの分類をとくとくとして記載するこのブログの記録者は、発明・発見物語の本来の楽しさをしらないわけではない。発明者の英雄物語は爽快である。スキャンダルと英雄物語と両方必要である。スキャンダルばっかりだとイヤになるだろう。ちょっとサッパリしたくなるだろう。ウドンをたべるときにネギなどの薬味がいるように。中東でチャパティ(釜の内側に薄く貼り付けて焼いたパン)を食べるとき、彼らは生のネギを片手に持って食べる。チャパティとネギを交互に食べる。ウドンとネギとおんなじだ。発明英雄物語と発明スキャンダルとどっちがウドンでどっちがネギかしらないが。

平家物語は誰が誰を討ち取ったとか、首をとったとか、血なまぐさいお話しが延々と続く。われわれは喜んでこれらの残酷エピソードを読む。しかし同じような残酷物語を読みつづけると、むなしくなってくる。したがって平家物語では、読み手が安心して読みつづけられるよう、清涼剤を用意する。それば、仏教の諦念にもとづく哲学:「所業無常、盛者必衰の理」である。平家物語では最初にこの読み方が提示される。物語のはじめに、その物語を解釈する哲学が提示されるのは、ユニークといえるのでないか。(「失われた時を求めて」では長い長い小説の最後に物語を貫く、感覚、考え方のようなものが提示される。「源氏物語」では、・・・・読んでいないが・・・作者はとくに1ページを裂いて、宣言するわけではないが、個々のエピソードが全篇を一貫して仏教的諦念を通して取り扱われている、といえるのでないか。)

発明発見のスキャンダルを読みつづける精神のバランスは皆さん各自でおとりください。



2012年9月7日金曜日

249.発明・発見をめぐるドラマ(スキャンダル)に関する一般法則2

前項で、発明をめぐる物語は、

(1)先行発明者が追随する改良者をおさえて、名誉や金銭的成功を手にいれる

(2)改良者が画期的改良をなしとげることによって、先行発明を単なる「予告編」にしてしまった物語

の2つであって、これ以外のものはない。と書いたが、これに加えて

(3)全く同様の発明が奇しくも全く時期を同じくして達成され、デッドヒートの末、鼻の差で勝負がつく。

(4)協力して、研究・開発に携わっていた複数のひとびとが、発明が達成されるやいなや、仲間割れを生ずる。

の4つに分類される。
また大発明や、大発見をめぐる物語ではないが、そしてこれは発明ではなく、発見に関する物語にかぎられているが、

(5)大発見と思ったら、全くのデッチあげ、ねつ造、偽物であった。

というのがある。この5番目は人類の輝かしい成果に関するものではないので、これで1グループをつくるのには異論があるかもしれないが、私はスキャンダルが大好きなのでこれもくわえておく。

昨日は2つと言っといて、きょう5つと言いかえるのは、卑怯だけれども、まだクレームの書き換えが許される期間と思うので、格好を言わずに訂正する。

発明と発見をごちゃまぜにしており、はなはだ粗雑ではあるが、「発明・発見物語は五つに分類できる」というのが、わたしのオリジナルのアイデアであります。(「発明・発見のトラブルに関する小児G分類」と称す)9月9日一部変更。

2012年9月6日木曜日

248.発明・発見をめぐる争いに関する一般法則

 共同研究者のうち一方しかノーベル賞をもらえなかったとき、受賞者が手柄を独り占めしたとか、横取りしたとかの非難をうけたり、特許とその改良特許との間で、血で血を洗う戦いが演じられたり、弟子に無断で先生が単独で特許を申請したり・・・・・輝かしい進歩の物語に黒い影のように点描される負のエピソードをまだしばらくは書き続けるつもりだけれど、同じような話が続くとどうしても飽いてくる。

そこで、ここいらでちょっと一休みして、発明・発見をめぐる数々のトラブルを概括してみよう。

わたしなんぞよりズットえらい先生方があい争うのにはどのようなメカニズムがはたらいているのか。先生方を将棋のこまのようにならべて、大所高所から論評を加え、こっちの先生のひげをひっぱってみたり、あっちの先生に鞭を振り上げさせたりしてみる。

まず私たちは、全く何もないところに輝かしい業績をうちたてることはできないのであって、立派な業績の前には、必ず先行する業績がある。問題は先の業績のうえに何ほどの成果を加えたかということである。この先行する業績を見ると、なかなかどうしてたいしたもので、何年も前にすごい大発見、大発明が大方達成されていたのであって、今回はちょっとそれに薬味をふりかけたところ、たまたま思いがけなく大成果が生まれたが、勝負ははるか以前についていたのではないかと思われることもたびたびである。

つぎに輝かしき大発見、大発明と思っても、次の若い世代にはかなわず、大発見がかすんでしまうような発見や技術の改良があとに続き、状況が一変して、自分の業績なんぞは、予告編にすぎなかったのではないか、と自信を失うこともある。

科学技術の進歩はS字状カーブを描いてレベルが高まっていくのであって、ある画期的業績があると、それがきっかけとなって爆発的に研究成果が積み重なって、「離陸」する。そのうち成熟して、進歩がすくなくなって、プラトーに達する。個々の成果が、このS字状カーブのどのへんに位置するかを判断することは難しい問題である。(1)爆発的進歩の引き金となった画期的成果なのか、(2)この進歩の直前の踏み台となった小さな石にすぎないのか。また、(3)画期的業績を踏み台としているので、かつてないほどの跳躍を達成しているが、所詮後追いの猿真似なのか。

私たちは大科学者や大発明家の英雄譚を通して、進歩の物語を読むので、ワットの伝記の中では、ニューコメンは、ヒトに進化する前のサルにすぎず、ジョナサン・ホーンブロアーはエピゴーネンにすぎない。しかしニューコメンなくしてはワットはなかったのであって、ニューコメンがすべてのはじまりと主張することもできる。ホーンブロアーは複式蒸気機関の発明者としての栄誉をうけてもよかったのに、偏狭なワットによって、破産させられてしまった。

発明に限っていうと、誰かの発明を別のだれかが真似をする。すると必ず何がしかの改良がなされる。完璧な発明はなく、その前の発明が大発明であればあるほと、あとから加える改良の進歩の度合いも大きくなる。したがって、本家より猿真似のほうが機能が優れているのが普通である。

したがって本家より性能がすぐれているからといって、また、その後の模倣者がこぞって、本家のほうでなく、猿真似のほうをまねするといっても、猿真似のほうが画期的発明とは必ずしもいえない。

また先行する発明はその後の改良発明に多大の影響をあたえている。先行発明なくしてその後の改良発明はない。しかしだからといって、先行発明が画期的発明とは必ずしもいえない。抜本的改良が加えられる前の先行発明はお話にならない、劣ったものかもしれない。

発明をめぐる物語は、(1)先行発明者が追随する改良者をおさえて、名誉や金銭的成功を手にいれるか、あるいは(2)改良者が画期的改良をなしとげることによって、先行発明を単なる「予告編」にしてしまったかの物語であって、これ以外のものはない。

その登場人物のせりふもすべてきまっている。発明の物語ほど、登場人物が、以前そのせりふを幾多のひとが繰り返しているのを全く意識せず、自分の心からの意見として、紋切り型のせりふを繰り返している物語はない。



2012年9月4日火曜日

247.ラジコンカー・レース

NHKの以前の夜遅く、単発の趣味の番組があった。それはラジコンカーによる直線コースのタイムを競うレースで、チャンピオンに挑戦者が挑むという趣向であった。

番組は主に挑戦者に密着して取材し、視聴者は挑戦者の気持ちになってしぜん挑戦者を応援するよう、つくられていた。

ラジコンカーでたとえば50mをフルスピードで走らせると、車のスピードに人間の操縦がついていかないという事態が生ずる。単純なレースだが、フルスピードで、しかも最短距離をとって走らせるのはなかなかむずかしいのだろう。

挑戦者のアイデアは車の全長を長くして、舵をとりやすくしょうというものであった。かれは、いそがしい本業の合間に設計し、部品を集める。彼の家庭の様子や、仕事のアウトラインが映像で描かれる。それによって、勤勉な一日本人が、余暇に情熱の一部を趣味に注ぐ様子がわかる。

一方チャンピオン側の描写は少なく、彼がひとり机に向かう姿が短時間うつされるだけだ。かれはラジコンヘリコプターのジャイロ装置をラジコンカーに応用して、ある程度自動的に舵が取れるようにしょうとしていた。

できあがった挑戦者の車体は、仕上げからして自作とは思えないほど立派なもので、視聴者はびっくりし、あらためて、彼の実力を認識し直す。

試合の当日になると、チャンピオンと挑戦者(ともに30代でしょうか)は、親友のように挨拶を交わす。挑戦者は緊張して、すこし上気している。それにたいし、チャンピオンは全く屈託なく、あいそよく、うれしそうである。ちっともファイトを感じさせない。(非常にハンサムな顔立ちである。)

試合はあっけないもので、チャンピオンの圧勝である。チャンピオンの車は当然のようにまっすぐコースを駆け抜ける。それに対し、挑戦者の車ーかれの努力の結晶ーは無念にもコース脇の草むらに突入し、大きくタイムをロスする。緊張して操縦を誤ったのかもしれない。

試合後、挑戦者はチャンピオンと握手を交わしながら、脱帽したように頭をさげるが、チャンピオンはえらぶることなく、あくまで平常心である。かれはあいそよく「楽しかったですね」というが、試合前の態度と全く変わりがない。

再会を約して二人は別れ、番組は終わる。・・・・・私の感じたことは二つのことである。

(1)チャンピオンのように礼儀正しく、愛想よく、社交的で、天才的で、ちっとも苦労したところを見せないのにいつも勝ってしまう人種がいる。私にはけっしてマネできないが、世の中はそういう人たちが動かしているのかもしれない。

(2)ラジコンヘリコプターのジャイロ装置をラジコンカーに応用すれば、勝つのは当たり前である。卑怯とも言える。ジャイロ装置をラジコンカーに応用するにはそれなりの苦労がいるが、達成された成果は、ふたつの技術の融合であるから、圧倒的である。新しい技術には飛びついて、自分の分野に応用が効かないか、常に検討しないといけない。しかしそうして技術的に他を圧倒するということは、何か卑怯な感じもする。ダビデは石投げ紐で巨人ゴリアテを倒した。ゴリアテは石投げ紐というような「文明の利器」は見たこともなかったのである。私たちがダビデを見習うことは、卑怯者を目指すことである。技術とはアイデアとは卑怯者になることである。