朝日新書の「カラシニコフ自伝」を****づくりの参考書として読んだ。
AK47は軍の突撃銃の設計コンペで勝利して、量産への道が開けた。
カラシニコフのチームはそれまで短機関銃のコンペで落選し、カービン銃や軽機関銃のコンペでも苦杯をなめていた。かれは落ち込み、博物館入りしてしまった出品作の欠点について深く反省した。そして、機構全体の信頼性が高くなければならないこと、小さな部品は分解掃除中になくすので、禁物であることなどを学んだ。そして現代の歩兵兵器の中で最も重要な突撃銃の設計コンペで、その経験を生かすことができた。
突撃銃のコンペではいきなり優勝者がきまったのではなく、多くの銃の中から、カラシニコフの銃を含む3つの応募作が最終コンペに向けて改良するよう求められた。そして、彼の「人生を変えるようなアイデアを思いついたのは、最終コンペの直前であった」。彼は、予選を通った銃を改良するふりをして、チームの同僚とともに、違う構造の銃を作った。彼の銃はコンペの規定よりも8cm短かった。かれは門前払いを食らうリスクを冒して、短い銃を出品した。コンペの終盤になって、審査員の一人がついにこの事実に気付いた。規定違反だ!懲罰ものだ!しかしそれまでに、カラシニコフの突撃銃は抜群の成績をあげていた。審査員は協議の結果、その短い銃を引き続き審査会に参加させることを決めた。
部品と部品の間に隙間をもたせ、「部品が空中に浮いているように配置する」アイデアが功を奏し、池に銃をいれたり、砂の上を引きずったりする過酷なテスト(泥や砂が銃の中にはいって動作不良の原因になる)にも、もっともすぐれた成績をあげた。このカラシニコフの銃を新しい突撃銃に選ぶことに異論をはさむ委員会のメンバーはいなかった。
最終レースを戦った、カラシニコフ、デメンチエフ、ブールキンのうち、私たちは勝者の名前しかしらない。
カラシニコフは手先の器用な少年だった。しかし銃の試作品を作るには、すぐれた技術や知識が必要で、かれの突撃銃の試作品を作ったり、改良した部品のテストをする間、同僚の技術や知識に依存していた。カラシニコフの設計意図を理解し、協力した、カラシニコフの右腕ともいうべき技術者サーシャ・ザイチェフ、彼がいなかったら、AK47は生まれなかっただろう・・・・・その名前は、この本の中でしか私たちは知ることはなく、いずれ忘れ去られてしまうだろう。
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