2012年10月2日火曜日

253.リーゼ・マイトナー

「リーゼ・マイトナー 嵐の時代を生き抜いた女性科学者」R.L.サイム著を以前に読んだ。もう一度図書館から借りてきて、オットー・ハーンが核分裂反応の発見でノーベル賞を独り占めし、(ひとりにしかあたえられなかったので彼のせいではないが)受賞演説で、リーゼ・マイトナーに言及しなかった部分を読もうとしたが、読めなかった。

カイザー・ウィルムヘルム研究所で、気さくなオットーハーンと共同研究をした、リーゼ・マイトナーの輝かしい日々の記載が延々と続き、ブログの材料をパクってやろうという、下卑た根性では、読めなかった。

とにもかくにも、オットー・ハーンはウランに中性子を当てる実験の結果をナチの手をのがれてスウェーデンに移住したリーゼ・マイトナーに手紙で送ってやったのである。その実験結果は、化学者としてのハーンの腕がなければ、そして、マイトナーにたいする友情がなかったら、彼女の手には渡らなかったのだから、ハーンだけを責められない。マイトナーもニールス・ボーアに勧められたからといって、オットー・フリッシュとだけの共著で、ハーンには相談せずに、原子核「分裂」が起こったという彼女の一世一代の分析を論文として発表したのだから、おあいこといえないことはない。

リーゼ・マイトナーと甥のオットー・フリッシュは、ある日、散歩しながら、オットー・ハーンの実験データについて討論を重ね、原子核分裂という概念に達した。このとき彼らは原子物理学の最前線、前人未到の場所にいたのであり、大発見をしたという気がしただろう。その結果をオットー・ハーンにしらせてやるべきだろうか。当時のドイツで、ユダヤ人であるマイトナーの名前を共同研究者として並べることは難しいかもしれない。マイトナーらだけで、1日も早く論文にするよりほかない、そう思うのは無理もない。

オットー・ハーンにしてみれば、実験データを送って相談したのに、その考察結果を無断で発表するとは何事か、そう思うのは、これまた無理はない。

ハーンはノーベル賞の受賞演説で共同研究者のことに言及して、喜びを分かち合うチャンスがあった。しかしユダヤ人の共同研究者のことを言うのはかれの立場を悪くすると思ったのだろう。そのチャンスをのがしてしまった。受賞演説は1度しかできないのである。

ハーンは核分裂に気づかなかった自分が許せなかったのだろう。同時にマイトナーに科学者としての嫉妬をかんじたのだろう。おかげで、彼は、科学史上、女性科学者を差別した好例として持ち出されるようになってしまった。

原爆が広島、長崎に落とされたことを知らされたドイツの科学者たち(連合軍の捕虜になっていた)のうち、ハイゼンベルグらは、ドイツも原爆を作るべきだったと言い合ったが、オットー・ハーンは、ひとり、「われわれはそれを作らないで良かった」と言った。ハーンは物理学者というより化学者であり、原爆計画があったとしても脇役だったので、そう言ったのだろうか、第一次大戦で毒ガス研究をしてこりたのだろうか。ハーンのことを考えるとき、このエピソードがたったひとつの救いのように思える。

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