ベルは研究ノートの電話実験の記載をグレイの特許権保護願いの書類を見てから書いた疑いがある。
1.ベルの研究ノートの電話のスケッチがイライシャ・グレイの特許権保護願いの書類にかかれたものと酷似している。
2.ベルの研究ノートに電話のスケッチと実験結果が記載されたのは、ベルの特許の申請書類が提出された日(同日にグレイの申請がおこなわれた)よりあとである。そして特許がおりたあとである。
3.ベルの研究ノートの記載の仕方をみると、音の共鳴現象を利用した、ベルの名付けるところの「調和電信」という多重電信の方法について、一歩一歩、条件を少しずつ変えて、システマチックに研究をすすめており、電話のアイデアの記載は、それまでなく、唐突である。
特許庁の役人が買収されて、ベルに便宜をはかった疑いがある。
4.イライシャ・グレイの特許権保護願いとベルの特許権請求とで、クレームの範囲が重なるため、通常なら審査会が行われるはずのものが結局行われていない。
5.ベルの申請の時刻とイライシャ・グレイの申請の時刻は、正確に記録されていないにもかかわらず、ベルが先だとして、ベルの方の特許が認められている。
6.ベルの特許申請当時、発明品の現物ないし模型の提出が必要だったのに提出された様子がない。
7.特許庁の役人が、「買収されて、ベルに便宜を図った」ことを、裁判でベルが勝利したのちに告白した。
8.ベルがグレイへの手紙の中で、非公開のはずのグレイの申請の内容を知っていたことを認めた記載をしている。
9.特許庁の役人が、「普段世話になっていた、特許事務所の弁護士にいわれて、ベルにグレイの申請書類を内緒で見せた」ことを告白した。
ベルの特許書類に不審な点がある
10.ベルの特許書類にはベルのノートに記載された最初の電話の実験の絵がない。別の構造の、より機能の劣った、送話器が電磁石式の電話の絵しかない。特許書類とノートの内容が一致していない。
11.ベルの特許書類のクレームの部分には液体を使った可変抵抗の概念が書かれているが、これは書類の余白に鉛筆で書き足されている。しかも十分書き足せるよう、全体を右に寄せて書き直している。書き足したクレームと図が一致していない。
12.クレームの内容は針-酸システムを含むように解釈が可能だが、具体的な記載がない。
13.アメリカの特許より前にイギリスにも特許書類を提出する予定で、人に書類を渡していたが、その書類には、電話のクレームの書き込みがない。ベルの証言のとおりの日に書き込みがされたのなら、当然書き込まれていなければならないのに。したがって、クレームはもっとあとから書き足された疑いがある。
ベルの行動に不審な点がある。
13.フィラデルフィアの博覧会には、機能の劣ったタイプの電話しか出品していない。実際に針-酸式の電話実験に成功しているのに。それはグレイも見に来ることがわかっていたので、機能のすぐれた針-酸式の電話を出してトラブルとなるのを避けたと考えられる。
14.ベルが針-酸式の電話と電磁石式の電話のどちらを先に発明していたのか。
もし針-酸式の電話を先に発明していたのだったら、(1)ノートの記載は申請の前の日付でなければならないし、(2)特許申請の書類の図はノートと同じような針-酸式でなければならないし、(3)クレームは余白でなく、堂々と最初から記載されなければならない。(4)博覧会のデモは、グレイとトラブルになろうとなるまいと、針-酸式でなければならない。そして、グレイと実験成功の日がどちらが先かで争わなければならない。(1)~(4)のいずれもベルはしていない。ということはベルは針-酸式の電話を発明はしていないと考えざるを得ない。
また、もし電磁石式送話器による電話で、人の声の内容がわかる程度のものを申請の時期に開発していたのだったら、(1)ノートの記載は申請の前に電磁石式の実験に成功したという内容のものになるはずで、(2)特許のクレームには、電磁石が接点を調整すれば可変抵抗器として機能し、送話器として使えるという内容を堂々と(余白でなく)記載すべきだし、(3)電話発明の記念日に、針-酸式の実験を再現したりすべきでない。あくまで電磁石式の電話の実験が、グレイの針-酸式より前であるということを、特許局の審査会の席で争うべきだろう。この(1)~(3)もベルはしていない。したがって、ベルはグレイの申請より前に電磁石式の電話実験に十分には成功してはいなかったのだろうと思わざるを得ない。
ベルがグレイの申請よりも先に電話を発明していたというなら、「針-酸式の電話と電磁石式の電話のどちらを先に発明していたのか」ということをはっきりさせるべきだと思うが、ベルの伝記をよんでもすっきりしない。彼自身はっきりいっていないのか(かれが「あいまい戦術」をとったのか)、かれの伝記作者がはっきり言っていないのか、どっちかだ。
2013年1月31日木曜日
2013年1月24日木曜日
262.ベルは本当に電話の発明者か
「グラハム・ベル 空白の12日間」(セス・シュルマン著)という本がある。私はこれを読んで、著者の主張に共鳴したので、もはや客観的にこの問題(ベルは本当に電話の発明者か)を論ずることはできない。しかしこの本のとおりとするなら、発明、発見をめぐるスキャンダルとしては超弩級のものだろう。
空白の12日間というのは、ベルの研究日誌に12日間の空白があり、その間、ベルはワシントンDCに特許書類の申請に行っていたのである。ワシントンDCから帰って再開した実験の最初に、ベルは全くそれまでと違った実験を行い、一発で電話の実験に成功する。それはイライシャ・グレイが、(発明特許ではなく)アイデア登録(正式名称は発明特許権保護願い)の形でベルの特許申請と同じ日に申請したのと、まったくおなじ方法によるものであった。ベルのノートにあるアイデアスケッチもグレイのものと、偶然とは思えないくらい似ている。すなわち、特許庁の役人が腐敗していた当時、ベルはグレイの申請を役人を買収して、盗み見、それを自分の多重電信の申請書の余白に書き込んだ・・・・・即ちベルはグレイのアイデアを盗用したと著者は主張しているのである。グレイは自分の書類を業者に頼んで清書させた。そのときに情報がもれ、ベルは義理の父親の助けで、グレイのアイデアも申請の日もあらかじめ知ることができたということである。
(発明特許権保護願いとは、まだアイデアだけで、実物のできていない発明を、アイデアだけ登録申請し、もしそれが認められれば、1年以内に実物が完成するよう努力する。もし1年以内に発明が完成すれば、自動的に特許として認めるという制度で、当時のアメリカにあり、現在はない制度である。)
百年以上も前のことなので、立証は難しい。電話の発明に関する裁判はベルの勝利で決着がついている。だから議論はやめよう。
しかし、ひとつだけは言っておきたい。「電話の発明者はグラハム・ベルであり、イライシャ・グレイは特許申請の時刻がベルより2時間遅れたために涙をのんだ」という世間に流布された俗説は、おかしい。なぜなら、アメリカの特許制度ははじまってこのかた、ずっと先発明主義であり、先願主義でない。申請したのが遅くとも、研究ノートなどによって、先にそのアイデアを思いついていたことが立証されれば、さきに思いついたものの特許となる。だから、アメリカの学生は自分の研究データに教授のサインをもらおうとする。自分の成果を記載したノートの証人になってもらうのである。
ベルの申請がグレイより2時間早かったからベルが発明者と認められたということは、アメリカの特許制度が先発明主義であるということと矛盾するではないか。
もしあなたが大学生であって、大学の講義で、上に述べた俗説をたとえば教授先生の口からきいたならば、すかさずアメリカ特許制度との矛盾を指摘し、その説明を求めたらよい。
しかしその前にセス・シュルマンの本を一度読むべきだ。そしてグラハム・ベルの伝記の決定版として、電話の発明者はベルであるとする書物の代表として、ロバート・V・ブルース著「孤独の克服ーグラハム・ベルの生涯」も読まなければならない。(片方だけだと片手落ちになる。)
ベルとグレイのクレームの内容が重なるため、特許庁長官はどちらの考案が先かの審議を行うとベルに通告したが、ベルの代理人が、「書類の受付時刻がベルの方が早いので調査してほしい」と主張すると、ベルの受付が帳簿上早いことが認められ、審議することなく、ベルの特許があっさり認められてしまった。これがのちに何年にもわたり、泥沼となる裁判のきっかけであった。(アメリカは先発明主義であるから、申請の書類は、その日のカゴの中へ、順番に頓着することなく入れられているので、本来帳簿上の順序のあとさきは意味がない。ベルの代理人は、ベルの書類を手持ちで持ち込み、ただちに受付手続きをしてくれるよう、窓口で異例の要求をした。したがってグレイの書類が先にカゴにはいったにしても、帳簿上の受付順はベルが先になった。ベルの代理人が受付順を調べるように特許庁長官に請願したとき、彼らがベルのほうが先であると確信していたのは、そのような理由による。)
ベルに特許がおりた日は、ベルの研究日誌に電話実験の成功が記録された日より以前である。グレイの「アイデア登録」(発明特許権保護願い)申請の日はベルの実験の日よりも以前で、ベルの特許が降りた日より以前である。しかしこの「アイデア登録」(発明特許権保護願い)というものは、実物ができていなくても申請はできるので、認められたにしても「特許」よりは格が下である。
まだ実験もしていない考案が特許として認められてよいのだろうか。しかしグレイも「特許」でなく、
「アイデア登録」(発明特許権保護願い)であるからには、まだ実験もしていないと考えられる。
ベルの特許が認められた当時の特許審議官がのちにベルの代理人に買収されていたと告白している。しかし彼はアル中であり、その前にその反対の証言を裁判でしている。したがって、そのどちらの証言も信頼するに足りないとされている。
電話の発明の優先権をめぐる話はこのように複雑で、スッキリしない。グラハム・ベルを電話の発明者として賞賛する役はごめんこうむりたいと思う。他の人がベルを賞賛するのは自由だが。
少なくともベルが一時期、必死になって電話の実験をしたことは確かである。たとえ、グレイの申請をカンニングしたあとであっても。そして研究の成果が上がるときというものは、その当時の時代のもろもろの状況が、発明が成就するような状態になっていて、発明者の登場を待っているばかりなので、他人のマネからスタートしたものであっても、勝利を掴むことがありうるのだろう。グレイは多重電信こそが重要と考えていた。電話については、その重要性にきづかなかったのかもしれない。
ベルには電話しかなかった。万国博覧会などでデモンストレーションを続けたのはベルである。
発明や研究をめぐる悲劇・喜劇というものは、特許制度や、賞の制度の欠点による。その発明に大なり小なり貢献した人々が多数あるのに、(そのような状況が発明を生むのに)その栄誉はごく少数の人間にしか与えられない。ノーベル賞はひとつの業績にたいし3人しか与えられない。だから、4人目であるために賞をもらえなかった優れたひとが大勢いるわけである。発明にたいする特許はたった一人にしか与えられない。だから、その発明に直接・間接に寄与した人たちのすべてが満足するようにはとてもいかないのは当然だろう。
空白の12日間というのは、ベルの研究日誌に12日間の空白があり、その間、ベルはワシントンDCに特許書類の申請に行っていたのである。ワシントンDCから帰って再開した実験の最初に、ベルは全くそれまでと違った実験を行い、一発で電話の実験に成功する。それはイライシャ・グレイが、(発明特許ではなく)アイデア登録(正式名称は発明特許権保護願い)の形でベルの特許申請と同じ日に申請したのと、まったくおなじ方法によるものであった。ベルのノートにあるアイデアスケッチもグレイのものと、偶然とは思えないくらい似ている。すなわち、特許庁の役人が腐敗していた当時、ベルはグレイの申請を役人を買収して、盗み見、それを自分の多重電信の申請書の余白に書き込んだ・・・・・即ちベルはグレイのアイデアを盗用したと著者は主張しているのである。グレイは自分の書類を業者に頼んで清書させた。そのときに情報がもれ、ベルは義理の父親の助けで、グレイのアイデアも申請の日もあらかじめ知ることができたということである。
(発明特許権保護願いとは、まだアイデアだけで、実物のできていない発明を、アイデアだけ登録申請し、もしそれが認められれば、1年以内に実物が完成するよう努力する。もし1年以内に発明が完成すれば、自動的に特許として認めるという制度で、当時のアメリカにあり、現在はない制度である。)
百年以上も前のことなので、立証は難しい。電話の発明に関する裁判はベルの勝利で決着がついている。だから議論はやめよう。
しかし、ひとつだけは言っておきたい。「電話の発明者はグラハム・ベルであり、イライシャ・グレイは特許申請の時刻がベルより2時間遅れたために涙をのんだ」という世間に流布された俗説は、おかしい。なぜなら、アメリカの特許制度ははじまってこのかた、ずっと先発明主義であり、先願主義でない。申請したのが遅くとも、研究ノートなどによって、先にそのアイデアを思いついていたことが立証されれば、さきに思いついたものの特許となる。だから、アメリカの学生は自分の研究データに教授のサインをもらおうとする。自分の成果を記載したノートの証人になってもらうのである。
ベルの申請がグレイより2時間早かったからベルが発明者と認められたということは、アメリカの特許制度が先発明主義であるということと矛盾するではないか。
もしあなたが大学生であって、大学の講義で、上に述べた俗説をたとえば教授先生の口からきいたならば、すかさずアメリカ特許制度との矛盾を指摘し、その説明を求めたらよい。
しかしその前にセス・シュルマンの本を一度読むべきだ。そしてグラハム・ベルの伝記の決定版として、電話の発明者はベルであるとする書物の代表として、ロバート・V・ブルース著「孤独の克服ーグラハム・ベルの生涯」も読まなければならない。(片方だけだと片手落ちになる。)
ベルとグレイのクレームの内容が重なるため、特許庁長官はどちらの考案が先かの審議を行うとベルに通告したが、ベルの代理人が、「書類の受付時刻がベルの方が早いので調査してほしい」と主張すると、ベルの受付が帳簿上早いことが認められ、審議することなく、ベルの特許があっさり認められてしまった。これがのちに何年にもわたり、泥沼となる裁判のきっかけであった。(アメリカは先発明主義であるから、申請の書類は、その日のカゴの中へ、順番に頓着することなく入れられているので、本来帳簿上の順序のあとさきは意味がない。ベルの代理人は、ベルの書類を手持ちで持ち込み、ただちに受付手続きをしてくれるよう、窓口で異例の要求をした。したがってグレイの書類が先にカゴにはいったにしても、帳簿上の受付順はベルが先になった。ベルの代理人が受付順を調べるように特許庁長官に請願したとき、彼らがベルのほうが先であると確信していたのは、そのような理由による。)
ベルに特許がおりた日は、ベルの研究日誌に電話実験の成功が記録された日より以前である。グレイの「アイデア登録」(発明特許権保護願い)申請の日はベルの実験の日よりも以前で、ベルの特許が降りた日より以前である。しかしこの「アイデア登録」(発明特許権保護願い)というものは、実物ができていなくても申請はできるので、認められたにしても「特許」よりは格が下である。
まだ実験もしていない考案が特許として認められてよいのだろうか。しかしグレイも「特許」でなく、
「アイデア登録」(発明特許権保護願い)であるからには、まだ実験もしていないと考えられる。
ベルの特許が認められた当時の特許審議官がのちにベルの代理人に買収されていたと告白している。しかし彼はアル中であり、その前にその反対の証言を裁判でしている。したがって、そのどちらの証言も信頼するに足りないとされている。
電話の発明の優先権をめぐる話はこのように複雑で、スッキリしない。グラハム・ベルを電話の発明者として賞賛する役はごめんこうむりたいと思う。他の人がベルを賞賛するのは自由だが。
少なくともベルが一時期、必死になって電話の実験をしたことは確かである。たとえ、グレイの申請をカンニングしたあとであっても。そして研究の成果が上がるときというものは、その当時の時代のもろもろの状況が、発明が成就するような状態になっていて、発明者の登場を待っているばかりなので、他人のマネからスタートしたものであっても、勝利を掴むことがありうるのだろう。グレイは多重電信こそが重要と考えていた。電話については、その重要性にきづかなかったのかもしれない。
ベルには電話しかなかった。万国博覧会などでデモンストレーションを続けたのはベルである。
発明や研究をめぐる悲劇・喜劇というものは、特許制度や、賞の制度の欠点による。その発明に大なり小なり貢献した人々が多数あるのに、(そのような状況が発明を生むのに)その栄誉はごく少数の人間にしか与えられない。ノーベル賞はひとつの業績にたいし3人しか与えられない。だから、4人目であるために賞をもらえなかった優れたひとが大勢いるわけである。発明にたいする特許はたった一人にしか与えられない。だから、その発明に直接・間接に寄与した人たちのすべてが満足するようにはとてもいかないのは当然だろう。
2013年1月16日水曜日
261.ga*li*g ru**er ba*ds g*n(ガ*リング・ラ*ーバ*ズ・*ン)
Youtube にga*li*g ru**er ba*ds g*n(ガ*リング・ラ*ーバ*ズ・*ンという動画がある。これも工学部か高専の学生さんの作品でないかと思う。この作品のすごいところは、輪護謨マ*ンガンの動力が護謨ひもということである。
木製ギヤを自作し、やりとげている工作力は大したものだと思う。
動力としての糸ゴムの特徴は瞬間的に大量のエネルギーを放出できるということであって、欠点は持続性に欠けるということである。長い時間動作させることは糸ゴム動力には苦手である。まだしもましな使い方というのは、糸ゴムの束をねじっておいて、ねじりが元へ戻るときにそれを動力とするやり方である。これがいちばん持続性がある。私たちが幼少時に作った竹ひご飛行機はねじった糸ゴムを動力としていた。そのほうがプロペラのまわる時間が長い。
糸ゴムを動力とした紙製のロボットの模型というのがあったが、これはロボットがコマネズミのようにせわしなく走りまわるものであった。電池とモーターによるロボット模型のほうがよっぽどロボットらしかった。
またねじった糸ゴムが元にもどる力というものは、トルクがないのである。持続性をもたせれば持たせるほど、トルクがなくなる。
しかし電池とモーターを使うのに比べて、糸ゴムのほうが簡素である。簡素なものには、大仕掛けなものに比べて、良いところもある。このガトリングガンは、歯車でトルクを倍増させ、それによって持続時間を犠牲にしながら、かろうじて、全弾発射できるだけの持続時間は達成しているのがすばらしい。
動力としての糸ゴムの特徴は瞬間的に大量のエネルギーを放出できるということであって、欠点は持続性に欠けるということである。長い時間動作させることは糸ゴム動力には苦手である。まだしもましな使い方というのは、糸ゴムの束をねじっておいて、ねじりが元へ戻るときにそれを動力とするやり方である。これがいちばん持続性がある。私たちが幼少時に作った竹ひご飛行機はねじった糸ゴムを動力としていた。そのほうがプロペラのまわる時間が長い。
糸ゴムを動力とした紙製のロボットの模型というのがあったが、これはロボットがコマネズミのようにせわしなく走りまわるものであった。電池とモーターによるロボット模型のほうがよっぽどロボットらしかった。
またねじった糸ゴムが元にもどる力というものは、トルクがないのである。持続性をもたせれば持たせるほど、トルクがなくなる。
しかし電池とモーターを使うのに比べて、糸ゴムのほうが簡素である。簡素なものには、大仕掛けなものに比べて、良いところもある。このガトリングガンは、歯車でトルクを倍増させ、それによって持続時間を犠牲にしながら、かろうじて、全弾発射できるだけの持続時間は達成しているのがすばらしい。
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